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カンボジアの官報とその研究利用にあたっての価値 笹川秀夫(立命館アジア太平洋大学アジア太平洋学部准教授)

1. はじめに

 1990年代前半以降、カンボジアは研究環境が劇的に改善されてきた。20年以上にわたる内戦とポル・ポト政権による圧政を経験したものの、1991年に和平協定が締結され、翌々年に新王国が成立した。その後、90年代後半からはフィールド調査が可能な地域が拡大し、文献資料の公開も進んだ。
 内戦中から利用されてきたフランスの公文書館、とくにエクサン・プロヴァンスに所在する海外公文書館に加え、カンボジア本国でも、国立公文書館、国立図書館、仏教研究所、国立博物館図書室などの整備と公開が進められてきた。なかでも、1997年末から研究者に公開された国立公文書館は、植民地期以降の歴史に関する資料の収蔵場所として、重要である。国立公文書館が所蔵する資料として、まずフランス植民地政庁の頂点に位置したカンボジア理事長官のもとで発信・受信された文書を主とするカンボジア理事長官文書がある。理事長官文書は、フランス植民地政庁が発した文書に加え、王国政府および地方行政組織が発した文書や、村人による請願などを含み、フランスの公文書館では知りえない、植民地期のカンボジア史に関する詳細を明らかにしうる。
 しかし、1940年代後半からの独立準備期間になると、フランスはカンボジアに徐々に内政自治を認めるようになり、理事長官の職も高等弁務官がとって代わることになった。その結果、高等弁務官が発した文書は、それ以前の理事長官によるものと比べると、極端に分量が少ない。また、1953年の独立以降は、各省庁が発した文書はその省庁に保管されることになり、内戦の影響もあって失われたと思われるものが多く、現在にいたるまで研究者に広く公開されてはいない。こうした資料状況から、近現代のカンボジアについて、網羅的なデータ収集を行ない、特定のテーマについて歴史の流れを追うには、官報の利用が重要となる。

2. カンボジア官報の刊行状況

 カンボジア国内に限定された官報の発刊に先立って、フランス領インドシナ全体を扱う官報(Journal Officiel de l’Indo-Chine、のちにJournal Officiel de l’Indochine)が、インドシナ総督によって1889年から刊行されようになった。国立公文書館は、1895年から1951年までの巻を所蔵している。その内容として、インドシナ全体に適用されたインドシナ総督令や、総督令による人事の記録などが掲載されている。
 その後、1902年からカンボジア理事長官がフランス語版の官報(Bulletin Administratif du Cambodge)を刊行するようになった。フランス語版の刊行から遅れて、1911年からクメール語版の官報(『リアチ・ケチ』Reach Kech)も刊行されるようになった。ただし、当初はフランス語版の全訳ではなく、重要と認められた各種政令だけが掲載されるダイジェスト版となっている。
 こうした2言語での官報刊行は、1944年までつづいたが、第二次世界大戦中の政治状況から影響を受け、1945年から変化が見られる。1945年3月9日、日本軍が明号作戦によりインドシナ軍を武装解除し、同月12日、日本軍政下の名目的なものながら、ノロドム・シハヌック国王が「カンプチア王国」の独立を宣言した。独立により、フランス語版の官報はJournal Officiel du Cambodgeへとタイトルが変更され、王国政府が刊行母体となった。つづく日本の敗戦により、1945年12月14日には「カンプチア王国」の独立が取り消された。ただし、1946年1月7日、フランス=カンボジア暫定協定が調印され、フランス連合内での内政自治が承認された結果、王国政府によるフランス語版官報Journal Officiel du Cambodgeが継続して刊行されることになった。一方、フランス植民地政庁は理事長官府から高等弁務官府(Haut Commissariat)へと名称を変え、王国政府とは別にフランス語版の官報Bulletin Administratif Français du Cambodgeを発刊した。
 1953年の独立後も、行政や司法の用語としてフランス語の使用が残存した。その結果、王国政府によるフランス語版官報(Journal Officiel du Cambodge)とクメール語版の官報が、ともに刊行されつづけることになった。1970年3月18日に成立したロン・ノル政権は、共和制への移行を宣言し、1970年10月8日、国名がクメール共和国に変更された。そのため、王政にまつわる用語が忌避され、クメール語版の官報も「国王」を意味する「リアチ」という語が削除されて、直訳すれば「国家の仕事」となる『ロアット・ケチ(Roat Kech)』へとタイトルを変更した。
 1975年4月17日、クメール共和国を倒して成立したポル・ポト政権(民主カンプチア)下では、官報は刊行されていない。1979年1月7日、ベトナム軍に支援された勢力の侵攻を受けてポル・ポト政権が崩壊し、人民革命党政権が成立した。官報も1985年からクメール語のみで発刊されるようになり、ロン・ノル政権と同様に王政に関する用語が忌避されたことから、そのタイトルは『ロアット・ケチ』となっている。
 1993年5月23日に制憲議会選挙が実施され、同年9月21日にシハヌックを国王に戴くカンボジア王国が成立して、20余年におよぶカンボジア内戦にようやく終止符が打たれることになった。クメール語で刊行されていた官報も、新王国の成立にともない、1970年までの『リアチ・ケチ』というタイトルに戻ることになった。
 官報の刊行頻度は、時期によって異なる。もともと1902年からのフランス語版は月刊、1911年からのクメール語版も月刊で始まった。その後、刊行頻度が高まり、1935年から隔週刊、1942年6月から週刊となる。独立後、さらに頻度が増え、1961年から週に複数回、刊行されるようになった。

3. カンボジア官報の所蔵状況と、それにもとづく研究の可能性

 カンボジア国立公文書館は、植民地時代とロン・ノル政権下のフランス語版に若干の欠号や欠葉があるものの、上記の2言語による官報のほとんどを紙版で所蔵している。さらに、植民地時代のフランス語版の一定部分(1904~1915年)と、1945年の1回目の「独立」以降の王国政府によるフランス語版すべて、高等弁務官府刊のフランス語版(1945~1949年)は、マイクロ・フィルムのマスター・コピーを作成済みである。そこで2010~2011年度に、京都大学東南アジア研究所の共同利用・共同研究拠点「東南アジア研究の国際共同研究拠点」タイプIII資料共有型に、筆者が代表者となって「国家形成と地域社会:カンボジア官報を利用した総合的研究」と題する共同研究を申請し、これらマイクロ・フィルムのコピーを購入する資金を得た。2010年度中に購入手続きを終え、京都大学東南アジア研究所の図書室に納入した。現在では、CiNii Books(旧称NACSIS Webcat)でも官報のフランス語タイトルで検索が可能であり、共同研究のメンバー以外も広く利用することできる。
 最後に、このカンボジア官報が、研究のためにどのような資料的価値をもつか、若干の検討を進めたい。理事長官文書には、ある特定の出来事に関する文書のやり取りが収められており、議論の経過を把握できるのに対し、官報から知りうるのは、いつ、どのような政令が公布されたかという結果だけである。ただし、経年で人事の流れを追ったり、特定の政策が地方に波及した過程を知るのには、植民地期に資料が限定される理事長官文書ではなく、官報が適している。理事長官文書が、いわば質的なデータであるのに対し、官報からは量的なデータの収集が可能になる。
 著者は、これまでに官報からいくつかの種類のデータを収集する作業を行なってきた。まず、独立準備期間から近代語彙の作成にたずさわった文化委員会のメンバー構成を官報から収集し、この委員会がクメール語雑誌『カンプチェア・ソリヤー』に発表した近代語彙集と対照する作業を行なった。また、京都大学地域研究統合情報センターでの共同研究プロジェクトに参加し、官報から宗教関係の記事をすべて拾って、植民地期から独立後にかけての対仏教政策を分析することを試みている。これらの論考は、現在のところ日本語でしか刊行されていないが、英語でも発表する準備を進めている。
 また、筆者以外にも、日本の若手カンボジア研究者数名が、カンボジア国立公文書館、あるいは京都大学東南アジア研究所で官報を閲覧し、植民地期における裁判所の人事や、国籍条項に関する政令の変遷をたどる調査を実施している。今後は、さらに多くの研究者がこれらの資料を利用し、カンボジア研究がますます発展することを望みたい。  (了)

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Journal officiel du Cambodge
[Microfilm ed.]. — National archives of Cambodia. — [マイクロ資料 microform].

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